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東の回遊魚

心臓の中に回遊魚を住まわせている男が
今の生活 灯台守での生活を緑色の鉛筆で書いた手紙の様にぽつぽつと私に話してくれた

焼いたチーズの端が好きだとか
一ミリさえも爪を伸ばすのが嫌いだとか
子供の頃から焦がれている歌の名前や歌手を知らないままがとても辛いとか

ぽつぽつ ぽつぽつ 
緑の色で言葉を紡ぐ

男は何の不思議も無い円卓にすらりと両腕を立てて顎を支え
たまに妖艶な色の液体をゆっくり呑んでいた
私は三つ目の枇杷を剥きながら尋ねてみる



「それ何?」
「? どれ?」
「呑んでるもの」
「ああ 何だろうね・・・もらったんだ ラベルはもう剥げていて分からないな」
「香りは良いね」
「呑む?」
「いや 今はもうアルコールは胃が受け付けない」
「病気?」
「さあ」
「そうか 僕丈呑んで申し訳無いかな」
「どうぞ御気にせず 私には枇杷があるから」
「うん」
「香りからして多分それ紹興酒じゃないかねえ」
「ショウコウシュって?」
「私が大嫌いなお酒 どう呑んで良いか皆目見当がつかない でもね 料理に使うと素晴らしいんだよ」
「面白いお酒だね」
「好みの問題だけど大抵の人は呑めるんじゃないかなあ 貴方だって抵抗無く口にしてるし 嗚呼 でも私は気持ち悪い 自分が呑むのを考えるとさ」
「呑まなくていいじゃない 未来永劫嫌いなものは呑まなくていい 誰も責めないよ」
「そうだね」



アルコールが入っていても 男の口調や眼差しは緑色の鉛筆の穏やかな心音を保つ



「ねえ」
「うん」
「火が通ったチーズしか食べないのは何で?お刺身なんかは全然大丈夫なんでしょ」
「気持ち悪いんだ でも焼いたものは好物になる 特に焦げ付いた部分に僕はいつも感心してるんだ」
「面白い乳製品もあるってことだね」

私が薄く笑ったら彼は心配そうにタオルを渡してくれた
ずっと濡れたままの手で枇杷を食べていたので 服や顔に飛び散らない様に 食器を持った時に滑って壊さない様にの配慮だった

「失礼 何だか気が回らなくて」
「いや 僕も今更渡してるし」

私は素直に手を拭いた
彼はまた妖艶な液体をゆっくり呑んで自分の爪をまじまじと眺め始め

「僕達は色々と頑固なのかね」

と 言った

「それとも 只 面倒臭いだけなのかね」
「さあ それは分からない」

私は正直に答えた







海辺に住む彼が日々見かけている魚の話をふと聞きたくなる
けれどその為に身を乗り出したり部屋の波長を気遣ったりするのはやめた







「明日は雨だから明後日は沢山の貝が浜辺に打ちあがってるだろうな」

灯台守は自分から向かって円卓の左を指差した
西という意味だ

向き合う私は北に居る
その理屈でいくと彼も私にとって北に居る
磁石の無い世界で散歩の様な会話が続く







「あ そうだ」

彼が自分の爪を眺めるのを止めて声を少し上げた

「この間作ったカメオがあるんだ 久しぶりに良い出来だと思ったから・・・持っていく?」



男は浜辺で貝を拾い丹念に磨いて加工して美しい雑貨にし懇意の店に委託し それを生計の一部にしている
見せてもらったそれはとても細密で美しく極上のものだった



「良い貝殻を見つけるねえ いや 良い腕を持ってるね」

私はそっと掌にのせられたカメオを驚愕して見つめ続けた

「欲しいけど これは高く売れるだろうから遠慮しておくよ」
「また作るから良い 気に入ったならもらって」
「でもこんな上質な素材が流れ着くとも限らないよ」
「だとしたら君の為に流れ着いた最後の貝だ 尚更持っていてほしい」
「妙なことを言うね」
「別に酔ってないよ」
「分かってる」
「良い腕を持ってるって言ってくれたのが本音なら またこれとは違うものが出来るから心配しないで」

男は立ち上がって冷蔵庫の中からスライスチーズが入った袋を取り出してきた

「焼いて食べるの?」
「いや このまま」
「?」
「もう少しくらい経つと毎晩猫が家の前に来るんだ その子にあげる」
「猫?たくさん?」
「一匹だけ どこに住んでるのかは知らないけどもう半年になるかな 三本足のね」
「三本足」
「それでもちゃんと彼は生きて暮らしてるんだよね」
「『彼』というと雄猫か あまえんぼかな」
「うん」
「人を怖がる?私は隠れてた方が良い?」
「君は大丈夫だよ」
「何で」
「猫の匂いがするから 場所を選んで眠ってる猫の」
「え?」
「気がつかなかったの」
「ちなみに私は入浴ちゃんとしてるよ」
「不衛生だなんて思ってないよ 第一猫は綺麗好きだもん だけどそういう猫のあの感じの匂い」
「分かんないな」
「来たよ」
「え」

海鳴りと風の音の中に何の足音も声もないが 気配だけはなにものも彼からは隠しきれないのだ



「ねえ」

扉を開ける前にこちらを振り返って灯台守が言った

「僕の中の魚はまだ泳ぎ続けられるだろうか?」






口調は淡々ではあったが こんな怯えにも似た台詞を言う彼を見たのは初めてだった
けれど とっくの昔に誰彼構わず口走っても全くおかしくない言葉だ

心臓に居るのは
彼の心臓に抱えているのは回遊魚なのだから
時折不安にならない方がおかしいというもの



微かな海鳴りと一緒に少し反芻してみた
この人の住まいに私が来訪しているきっかけや継続や距離感や温度など
そして魚に何も土産を持参したことが無かったな と 気がついた

がっかりしたり傷ついていたりしていたかもしれない
けれど魚も彼もなかなか甘えないのだ 物事に



そこで ああ と 思った



もし彼(または彼等)が今迄誰にも甘えなかったことが毒になり
紹興酒をゆっくり呑む様な時間の長さで何かを蝕まれていったのなら
もし来月私が此処を訪れた時 埃を被った家具の上に何の手紙一通が無くても
ついに彼が望んで自分の『手当』を何処かで始めるのなら
私は相槌を打つ様に海原の音符達をゆっくり小分けする様に時間をかけて見送るのだろう と 小指がちいさく震えた



猫も
魚も
貝も
貴方を責めたり
誰も
私も
海も
貴方を際に竦ませたり渦中に戻したり



そんな馬鹿げた残酷な事は一切してはいけないし しない 







色々を想いそして黙り続けている私を眺めていた彼はそれを優雅に止めて扉を開けた

「じゃあ ちょっと行くね」

そう言って 火を通していないチーズを持って真っすぐ外に出て行った







『未来永劫呑まなくていい酒』と『枇杷』と『最後のカメオ』が
『何の不思議も無い円卓』の上で私を責めもせず 律儀に『只』に身を任せていた

私は椅子から立ち上がらず
扉も開けず
追わず
それらを眺めながら灯台のことを考えていた
 
灯台は明日の降る雨に 
灯台守のこれからの長い長い不在をどう伝えるのだろう







違う

灯台守は灯台の中に住んでいた
誰に言うつもりも無い 何に聞かせるつもりもない 灯台守の吐血にも似た沢山の呟きや叫びを 
灯台だけが一言一句知っている

けれど 灯台は彼を愛しているだろうから 誰にも彼の鍵のかかった吐露を耳打ちしないだろう
願わくば雨にも漁師にも







今夜だったとはなあ と 私は思った
今夜だったのか と 彼も思っているかもしれない

あの人が仮にあと八十秒の命でも 
自分を助けてみようと何かに決着をつけようと額に風を受けているのなら
今夜の諸々の世界は一斉に声と瞼を閉じるのかもしれない


例え回遊魚の行方が想像と違った方向や形になったとしても 
灯台守はもう歩き出してしまった

磁石を持たないまま住まう魚の生命力だけを頼りにして
もう東へ歩き出してしまったのだ




















ちいさな猫の鳴き声の様な雨が降り出した頃
私は素晴らしいカメオを静かに胸へ住まわせて
紹興酒の美しい香りを大きく吸った
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by anitya_ocean | 2011-01-28 18:33 | Comments(0)