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東の回遊魚

心臓の中に回遊魚を住まわせている男が
今の生活 灯台守での生活を緑色の鉛筆で書いた手紙の様にぽつぽつと私に話してくれた

焼いたチーズの端が好きだとか
一ミリさえも爪を伸ばすのが嫌いだとか
子供の頃から焦がれている歌の名前や歌手を知らないままがとても辛いとか

ぽつぽつ ぽつぽつ 
緑の色で言葉を紡ぐ

男は何の不思議も無い円卓にすらりと両腕を立てて顎を支え
たまに妖艶な色の液体をゆっくり呑んでいた
私は三つ目の枇杷を剥きながら尋ねてみる



「それ何?」
「? どれ?」
「呑んでるもの」
「ああ 何だろうね・・・もらったんだ ラベルはもう剥げていて分からないな」
「香りは良いね」
「呑む?」
「いや 今はもうアルコールは胃が受け付けない」
「病気?」
「さあ」
「そうか 僕丈呑んで申し訳無いかな」
「どうぞ御気にせず 私には枇杷があるから」
「うん」
「香りからして多分それ紹興酒じゃないかねえ」
「ショウコウシュって?」
「私が大嫌いなお酒 どう呑んで良いか皆目見当がつかない でもね 料理に使うと素晴らしいんだよ」
「面白いお酒だね」
「好みの問題だけど大抵の人は呑めるんじゃないかなあ 貴方だって抵抗無く口にしてるし 嗚呼 でも私は気持ち悪い 自分が呑むのを考えるとさ」
「呑まなくていいじゃない 未来永劫嫌いなものは呑まなくていい 誰も責めないよ」
「そうだね」



アルコールが入っていても 男の口調や眼差しは緑色の鉛筆の穏やかな心音を保つ



「ねえ」
「うん」
「火が通ったチーズしか食べないのは何で?お刺身なんかは全然大丈夫なんでしょ」
「気持ち悪いんだ でも焼いたものは好物になる 特に焦げ付いた部分に僕はいつも感心してるんだ」
「面白い乳製品もあるってことだね」

私が薄く笑ったら彼は心配そうにタオルを渡してくれた
ずっと濡れたままの手で枇杷を食べていたので 服や顔に飛び散らない様に 食器を持った時に滑って壊さない様にの配慮だった

「失礼 何だか気が回らなくて」
「いや 僕も今更渡してるし」

私は素直に手を拭いた
彼はまた妖艶な液体をゆっくり呑んで自分の爪をまじまじと眺め始め

「僕達は色々と頑固なのかね」

と 言った

「それとも 只 面倒臭いだけなのかね」
「さあ それは分からない」

私は正直に答えた







海辺に住む彼が日々見かけている魚の話をふと聞きたくなる
けれどその為に身を乗り出したり部屋の波長を気遣ったりするのはやめた







「明日は雨だから明後日は沢山の貝が浜辺に打ちあがってるだろうな」

灯台守は自分から向かって円卓の左を指差した
西という意味だ

向き合う私は北に居る
その理屈でいくと彼も私にとって北に居る
磁石の無い世界で散歩の様な会話が続く







「あ そうだ」

彼が自分の爪を眺めるのを止めて声を少し上げた

「この間作ったカメオがあるんだ 久しぶりに良い出来だと思ったから・・・持っていく?」



男は浜辺で貝を拾い丹念に磨いて加工して美しい雑貨にし懇意の店に委託し それを生計の一部にしている
見せてもらったそれはとても細密で美しく極上のものだった



「良い貝殻を見つけるねえ いや 良い腕を持ってるね」

私はそっと掌にのせられたカメオを驚愕して見つめ続けた

「欲しいけど これは高く売れるだろうから遠慮しておくよ」
「また作るから良い 気に入ったならもらって」
「でもこんな上質な素材が流れ着くとも限らないよ」
「だとしたら君の為に流れ着いた最後の貝だ 尚更持っていてほしい」
「妙なことを言うね」
「別に酔ってないよ」
「分かってる」
「良い腕を持ってるって言ってくれたのが本音なら またこれとは違うものが出来るから心配しないで」

男は立ち上がって冷蔵庫の中からスライスチーズが入った袋を取り出してきた

「焼いて食べるの?」
「いや このまま」
「?」
「もう少しくらい経つと毎晩猫が家の前に来るんだ その子にあげる」
「猫?たくさん?」
「一匹だけ どこに住んでるのかは知らないけどもう半年になるかな 三本足のね」
「三本足」
「それでもちゃんと彼は生きて暮らしてるんだよね」
「『彼』というと雄猫か あまえんぼかな」
「うん」
「人を怖がる?私は隠れてた方が良い?」
「君は大丈夫だよ」
「何で」
「猫の匂いがするから 場所を選んで眠ってる猫の」
「え?」
「気がつかなかったの」
「ちなみに私は入浴ちゃんとしてるよ」
「不衛生だなんて思ってないよ 第一猫は綺麗好きだもん だけどそういう猫のあの感じの匂い」
「分かんないな」
「来たよ」
「え」

海鳴りと風の音の中に何の足音も声もないが 気配だけはなにものも彼からは隠しきれないのだ



「ねえ」

扉を開ける前にこちらを振り返って灯台守が言った

「僕の中の魚はまだ泳ぎ続けられるだろうか?」






口調は淡々ではあったが こんな怯えにも似た台詞を言う彼を見たのは初めてだった
けれど とっくの昔に誰彼構わず口走っても全くおかしくない言葉だ

心臓に居るのは
彼の心臓に抱えているのは回遊魚なのだから
時折不安にならない方がおかしいというもの



微かな海鳴りと一緒に少し反芻してみた
この人の住まいに私が来訪しているきっかけや継続や距離感や温度など
そして魚に何も土産を持参したことが無かったな と 気がついた

がっかりしたり傷ついていたりしていたかもしれない
けれど魚も彼もなかなか甘えないのだ 物事に



そこで ああ と 思った



もし彼(または彼等)が今迄誰にも甘えなかったことが毒になり
紹興酒をゆっくり呑む様な時間の長さで何かを蝕まれていったのなら
もし来月私が此処を訪れた時 埃を被った家具の上に何の手紙一通が無くても
ついに彼が望んで自分の『手当』を何処かで始めるのなら
私は相槌を打つ様に海原の音符達をゆっくり小分けする様に時間をかけて見送るのだろう と 小指がちいさく震えた



猫も
魚も
貝も
貴方を責めたり
誰も
私も
海も
貴方を際に竦ませたり渦中に戻したり



そんな馬鹿げた残酷な事は一切してはいけないし しない 







色々を想いそして黙り続けている私を眺めていた彼はそれを優雅に止めて扉を開けた

「じゃあ ちょっと行くね」

そう言って 火を通していないチーズを持って真っすぐ外に出て行った







『未来永劫呑まなくていい酒』と『枇杷』と『最後のカメオ』が
『何の不思議も無い円卓』の上で私を責めもせず 律儀に『只』に身を任せていた

私は椅子から立ち上がらず
扉も開けず
追わず
それらを眺めながら灯台のことを考えていた
 
灯台は明日の降る雨に 
灯台守のこれからの長い長い不在をどう伝えるのだろう







違う

灯台守は灯台の中に住んでいた
誰に言うつもりも無い 何に聞かせるつもりもない 灯台守の吐血にも似た沢山の呟きや叫びを 
灯台だけが一言一句知っている

けれど 灯台は彼を愛しているだろうから 誰にも彼の鍵のかかった吐露を耳打ちしないだろう
願わくば雨にも漁師にも







今夜だったとはなあ と 私は思った
今夜だったのか と 彼も思っているかもしれない

あの人が仮にあと八十秒の命でも 
自分を助けてみようと何かに決着をつけようと額に風を受けているのなら
今夜の諸々の世界は一斉に声と瞼を閉じるのかもしれない


例え回遊魚の行方が想像と違った方向や形になったとしても 
灯台守はもう歩き出してしまった

磁石を持たないまま住まう魚の生命力だけを頼りにして
もう東へ歩き出してしまったのだ




















ちいさな猫の鳴き声の様な雨が降り出した頃
私は素晴らしいカメオを静かに胸へ住まわせて
紹興酒の美しい香りを大きく吸った
# by anitya_ocean | 2011-01-28 18:33

遮るものは

氷を頭に乗せても数分ともたない今年のこの季節 私はとある知人に手紙を書かなかった

だからといって何が重大になるわけではないけれど些細に帰るわけではないけれど
何処かで誰かが髪を切るのをするりと忘れているのだろうな と いうことは分かる



「散歩をした」
と 真夜中電話で誰かに伝えるとその相手は黙り込んだ 
あんぐり口でも開けているのだろう
「昼間じゃないよ 夜の散歩に出た 日が落ちないと到底無理でね もう」
「そうかあ・・・」
「公園に行ってブランコに乗って三半規管がおかしくなった」
「じゃ もう遊園地なんか行ったらすぐ担架だな」
「分かってたけど思い知るのとはまた格別の何かがあるね」
「少しずつ体を動かしてればまた何にでも乗れるんじゃない?」
「どうだろ・・・海賊船みたいだったんだよ ブランコ」
「まあ急に漕いだからでしょ これからは急を避ければいいよ」
「散歩は急に行ったんだがなあ」
「で すぐ戻って来たの?」
「うん おっかないのもあったし」
「今度はまた少し ほんの少し長く歩いてくればいい 真夜中より少し手前の時間帯にしなよ 少しずつが肝心だからね 多分君にはね」
「少しずつが一番良いのは分かるワ」
「そう?」
「あのねえ そういうの最近発見した」
「へえ」
「例えば化粧水つける時とかでもそうでさ」
「うん」
「値段が高くないもので全然いい でもコツがあんの」
「女は大変だなあ」
「大変だよ でも男のあんたは男の大変さに気付いてる?」
「勿論男も大変ですよ」
「でしょ」
「で 続き教えて」
「吃驚するくらいの・・・一回につきホントにこれだけでいいのかって位の微量を掌につけてね それを顔に三回にわけてゆっくり丁寧に染み込ませるとさ 呆れるくらい潤うんだよ ホントにホントに少しずつじゃなきゃダメなんだけども」
「手間ね 成る程ね」
「うん そう 手間」
「俺もそうだよ 化粧水じゃないけど」
「貯金?」
「はは さあね」
「ふ」
「何にしても大事を染み込ませるのは・・・何て言うのかなあ そういうのキライになっちゃ出来ないんじゃない?きっと絵もそうでしょ?色とかどう?」
「うん」
「描いてる?」
「絵はね 手紙は書いてない」
「手紙?」
「まあ・・・何でもない」
「手紙ねえ 書かなくなったなあ そういうのね」
「四弦どう?」
「うん 弾いてるよ なかなか聴きに来ないね」
「夏だからさ・・・」
「たまにはおいでよ」
「夏眠をよくしてるんだ」
「仮眠?」
「冬眠ならぬ夏眠だ」
「?」
「なつねむり」
「ああ『なつ』って『か』か」
「うん だから手紙もライヴも歯医者も散歩も色々」
「弾きに行ってあげようか」
「いい」
「だろうね 助かった」
「良かったね」
「でも歯医者には行きなよ」
「そう思う」
「手紙は書かなくていいから」
「そう?」
「事情は知らないけど 散歩に出た丈でも よしと思うの今 俺はね」
「もうナイフ踏んでる様に痛かったぞ 靴は大事だね」
「分かってるから そういうのは言うなよ」
「君は泣き虫だからな 男らしいよ」
「どうかな 比べるもんじゃないみたいなこと言ったくせにさあ」
「うん」
「俺も歯医者行くかな」
「そうなの?じゃあ一緒に行くか」
「歯医者こそ一人で行きなさいな」
「知ってるよ」
「手紙を書かなくていいんだからサ 気楽なほうでしょ」
「ふーむ」
「さて 寝る 歯磨いて風呂入って 俺寝るワ」
「うん」
「またね」
「ねえ 今年はどんな冬になるかね」
「まだ夏真っ盛りだよ」
「だから冬の話」
「じゃあ お互い治療が終わってるといいね」
「そうか それいいね」
「いいよ 最高ですよ」
「ではまたね」
「うん じゃ 明日 弾きに行くから」






そういうものなのかなあ 彼にとって日々というものは と 切れた電話を見つめて考える
助かった と 言ったのは去年でもあるまいし
距離に慣れているのだ 物事の
彼は泣く事が多かったのかもしれない
或いはその反対か



とにかく散歩に出掛けて行方をくらまそう と 思いながら電話を置いて私も歯磨きに洗面所へ行った






すると 遮るものはもう何もない と とある人が急に背後で歌い出した 

でも私は従わないんだ
残念でも何でもない
『何も』なんてあるわけないから



錯覚を好むのは生きていく為でもあるから邪険にはしないけど
それでも私は従わないから自然に留守を背にするんだ
# by anitya_ocean | 2010-08-22 21:05

殻の音

以前の『nobody's fool』や 一旦消した『雄弁な臓器』を読んで頂いてくれた方は
j1とj2という人物の文字に見覚えがあるかもしれないし とっくに忘れたかもしれない

私は何もデータを手元に残さず ブログの退会ボタンを頬杖をつきながら核爆弾のミサイルの様に押してしまったので 関わったあの頃は憶えていても エキサイトに綴ったエントリーには薄い御簾が垂れ下がっている

キャプテンj1が彼岸からj2を救い上げ 彼等は今もj2が望んだ雪の降らない土地に移動し 静かに たまに咳払いなんかもして きちんと暮らしているみたいだ



j2は相変わらず喋らない 喋れない
j1は相変わらず同僚時代のj2の名刺を本の栞にして 時々面白かった作品の報告をしてくる




私が彼等を忘れかけた頃 彼等は私をどうやら思い出す様だ
何かの詩ではないけれど 逢いには行けないが



電話があった
私が血塗れで横たわっている時刻だった

喋らない筈のj2が私の名を口にして 久しぶり と 言う
以前も何回か彼はこうやって電話をかけてきた

私は黙って懐かしい響きをもう慣れて聞く
j1は眠ってるといういつもの言い訳を聞く
起こして何故j1と喋らないのか 声を聞かせて喜ばせてあげないのかは もう問わない

聞かせても自分はまたいずれ口を閉ざしてしまう と j2
j1は表情を変えずそれを許すだろうが 腹の底からその現象に落胆しているのが分かる と 温度のある声で昔 j2から説明を受けた

それでもj1は聞きたいだろうし 一時的なものであっても ほんの数秒でも 泣き言でも文句でも j2の言葉を借りれば腹の底から望む声音だろう と 私は正直j1が気の毒になる










「治らないよ」

j2が電波に声をのせて喋る

「治らないって 何が」
「僕の頭」
「患ってると思うからいかんよ」
「でも切るのにも疲れた」
「切ったの?もー・・・」
「さっき」
「血は」
「いっぱい」
「私も」
「えっ」
「こっちは生理だ 只の」
「痛い?」
「痛いよ」
「可哀想だね」
「可哀想だよ 頭に来るよ 仕事もブレる」
「うん」
「で 何処切った?深い?」
「うん」
「うん じゃ分からん」
「うん」
「どうした 何が辛い 今」
「色々」
「あんたも辛いだろうけど 切ったらね j1も辛いよ」
「anityaも?」
「猫みたいなこと言うね」
「猫は?anitya」
「死んだ」
「いつ」
「もうあんまり言いたくない」
「ごめんね」
「柔らかいの憶えてるからいい」
「anityaの手も柔らかいよ」
「へえ」
「昔 一緒に散歩した時 手を繋いだでしょ」
「そんなこともあったねぇ 私は方向音痴世界選手権ベスト3にランクイン出来るからね」
「小指がちいさいから吃驚した ちいさいまま?」
「当たり前じゃ もう成長はせんよ」
「だから僕も治らないよ」
「一緒にしない そんで泣くならj1のとこで泣いておいで 私は腹が痛いんだ 今」
「泣くと向こうも泣くから」
「あいつ泣くの?」
「時々」
「素直になってきたのかあ」
「迷惑かけてるし 仕事でも疲れてるんだと思う」
「仕事は家でしてるんでしょ ちゃんとj1は」
「うん」
「今度は何を訳してんだろ」
「英語じゃなかったよ」
「いつ〆切り?」
「聞いてない」
「出たら買うよ」
「j1は送ってないの?」
「断ってんだ こっちが」
「何で?」
「何となく」
「不思議」
「ところで あんた傷口手当した?」
「したよ タオルで巻いた丈だけど したよ」
「血 止まった?」
「まだ 滲んでるから」
「いつか止まるよ 私も終わるし」
「終わるって?」
「生理だ!」
「可哀想に」
「そう 可哀想」
「あのね j1 先生になったんだよ」
「何の?」
「手話」
「成る程・・・あんたも手話上達した?」
「少しずつ」
「頑張ってんなあ j1 いや j2もね」
「それで 家に人が来るんだよ たくさん」
「?」
「家で手話を教えてる 人に」
「教室 自宅?」
「それも辛いんだよ」
「一緒に受講してないの?」
「してない」
「外で先生しに出掛けるのを止めて家でやってんのは あんたの為くらい分かるよね」
「そうだね」
「どっちにしろもう仕方ない 辛いのは」
「生徒の人が来ると僕は自分の部屋に居るけど 気持ち悪くなって吐くよ 吐くのはホントに苦しい」
「うーん・・・仕方がないことってのは困るねえ」
「j1も同じ様なこと言ってた」
「だろうね」
「で anityaはどうして来ないの こっちに」
「なかなか行けない ああ 何か似た様な台詞最近知り合いに言ったな 私」
「旦那さんが怒るの」
「怒らん 私は怒るよ」
「最近怒った?」
「怒ったっけ 怒ったな」
「何かされたの」
「旦那のことじゃないよ 愚痴言ってるうちに喚いてたんだ 私が」
「何に?」
「口に出すのもヤダ」
「やっつけてやろう」
「?」
「嫌な事されたり言われたりしたの?その誰か 僕がやっつけてやるよ」
「いい て言うか絶対駄目」
「旦那さんは?」
「知ってるから大丈夫」
「怒ってないの」
「分析してたよ 怒る姿をこっちに見せると私がナーバスになるの知ってるから怒らない」
「それで anitya 嫌な事で具合悪くなったりした?」
「良くはない」
「やっぱり 行くよ」
「出来もしないくせにお馬鹿さんだねぇ」
「j1は多分 こういう風には言わないんだろうな」
「言わんね」
「じゃあ黙って探すのかな」
「いいや まずそういうことは考えない」
「anityaが頼めば探すよ」
「頼まない 兎に角あの人は何の為に会社辞めて あんたの側に居て 引っ越しまでしたのか 頭の中で反芻してみ これ以上くだらない事言い続けると怒るよ」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいは命令と同じだよ」
「すみません」
「うん」
「眠い?」
「うん」
「anityaは何処にも行かない?」
「?」
「消えたりしない?」
「蒸発ってこと?」
「何でもいい 居なくならない?」
「・・・?うん」

j2が黙る
少し気持ちが焦ったので 何かとりとめのないことでもいいから話してみ と 言ってみる

「煙草は?」
「吸ってるよ」
「お酒は?」
「どうでもいい」
「絵は?」
「来たらやる 最近はかかりっきり」
「僕は?」
「つまらないものを食べたり飲んだりしないこと」
「僕らは?」
「どっちの?j1とあんた?」
「うん」
「風邪ひかないこと」
「僕とanityaは?」
「こんな感じでいい」
「j1とanityaは?」
「別に普通で」
「j1は君に逢いたがってると思うよ」
「無い」
「何も知らないんだね」

そうだな と しみじみ思う
私は何も知らない 
知らない方が良い時もあるけど ありすぎる

「もう眠る 何も言わなくていいからj1を起こして手当をちゃんとしてもらってよ」
「怒られるかもしれないなあ」
「本気で怒られなくなったら終わりだ 馬鹿」
「そうなの?」
「そう」
「旦那さんは怒らないんでしょ」
「色んな形があるんだ」
「うん」
「さて 今度いつ声が聞けるかわかんないのかぁ おやすみって言ってよ」
「おやすみ」
「暖かくして寝て」
「・・・・」



j2は受話器を持ったまま 黙っていた
まるでバッテリーが切れた機械の様だが また本当に喋れないのだ

j2に無理矢理声を出すことを禁じたのはj1と私だった
てんかんを起こしてしまうからだ
もう自然に任せよう と もう待とう と 憔悴しきったj1と話し込んだ日を思い出す
j1は何度も頷いていた
振り払う様に 受け入れる様に 幾つもの巴が見えた



そしてそれでも j2が声を運んで来ると 私は正直嬉しさと居たたまれない感情が薮蚊の様に頭の中に飛来してしまう



苦しそうな呼吸だけが聞こえる受話器の向こうは靴下を滅多に履かなくてもいい土地だ 
けれどj1がきちんと免疫を守る為に指南していることだろう

大きな溜め息が繰り返される
恐らく望んでいないのに遮断されてしまった自分の声に落胆と悔しさで泣いているのだろう と ぼんやり思った



「j2 もういい j1の所に行って ちゃんと止血してもらって 分かったら一回ノックして 受話器」

カツン と 鳴る



それが卵の割れる殻の音だったらいいのになぁ と 思う
j1とj2が他愛の無い話をいつでも出来る様になればいいのに



けれど彼等は不幸では無い



私も今月も実らない卵の名残りが流れていく
私も不幸では無い





痛い丈だ
# by anitya_ocean | 2010-04-05 11:31

氷解

先週の土曜日に久しぶりにスタジオにでかけた
相変わらず遅刻癖が治らなくて師匠を三十分以上待たせてしまった

ずっと猫の事で色んな迷いを抱えて懲りずに泣き腫らし 瞼がどら焼きみたいになっていたので薄い飴色のサングラスをかけて行く

猫の件は師匠は知っていたので ぽつぽつと私が話すと黙って聞いてくれた
レッスンの前に師匠のソロを聴かせてもらえないか と 遅刻した分際で御願いすると快諾してくれた



言語化出来ない程の圧倒的なプレイに只只息を呑むばかりと自然に私も体でリズムをとっていた
何というか 氷解だ



御礼を言い 目にはみえないけれど猫と一緒に今日は師匠のドラムを聴きに来たと正直に話す
生前 猫は師匠が所属しているグループの動画を黙ってじっと眺めて聴いていた

師匠が少し間をおいて もう一曲猫ちゃんの為に叩いていいかな と 驚愕の御言葉が出た
もの凄く嬉しかった

その曲も勿論アドリブだった 

繊細で希望に満ちあふれてしなやかにひそやかに奥深い音色を鮮やかに見せてくれた
終始穏やかでいながらも鋭敏を保つ師匠の横顔と奏
迷っていた事にそっと背中を押される 
頑固者の私に柔らかく力強く

自然に素直に決断を掴ませてくれた







スネアとタムの上を嬉しそうに元気に飛び渡ってゆく猫がぼんやり浮かんだ
最後の静かな一音を吸い込んだ後 ゆっくり ありがとう と 言って 猫はドラムから降りて新しい場所へ向かって行った

とても軽やかに そして迷わずに
# by anitya_ocean | 2010-03-15 13:47

停留所

可笑しな奴が来た と 某所に住む友人が伝えてきた
一緒に共同生活を始めた と 屈託なく言うので へえ としか返せない



身一つで その『可笑しな奴』は友人の地元の近所のバス停に何時間も居たので 声をかけてみたら特に理由は無く此処に来たのだという

危ない奴じゃないだろうね と 一般論で返したら そういうのは一山超えてるみたいだね との由



「最初は随分消耗していて飯も食ってない感じだったけど 特に金が無いってわけでもないんだよ 身なりもシンプルで良いし」
「幾つくらいの人?男?女?」
「男 俺より下かと思ったら全然上だった 向こうもこっち見て同じこと考えてたんだって」
「どういう展開で今に至るワケ?」
「何となく 全部なんとなくだよ 停留所のベンチで四方山話してたら日が暮れてきて 旅館なんてお金勿体ないからウチに来ればって言ったら急に黙っちゃって当然夜になるじゃん 寒いし腹減ってきたから とりあえず一泊して明日旅館まで送りますよって言ったら 別に何処にも宿泊するつもりはないんでとか妙なことをやっと言うから面倒臭くなって じゃあ飯だけ食べて行きませんかって」
「言ったの?あんたが」
「うん そしたら来たよ」
「何だろ その人 て言うか 何なんだ相変わらずあんたは」
「anityaに言われたくない」
「で?」
「単純に腹は減ってたんじゃないのかな 腹は何があってもどうしても減るでしょ いつか」
「うーん」
「適当にあり合わせのもの出したけど ビールと豆腐食ったら もう船漕ぎ出したから布団敷いてやったの」
「うーーん」
「朝になったから どうしますかって聞いたけど 何て言うの よくanityaがいう 暖簾に腕押し糠に釘二階から目薬な・・・」
「ははぁ」
「俺は仕事があるから旅館とか喫茶とか本屋の住所と電話番号メモして渡してろくろのトコ行ったよ」
「何も盗られなかった?」
「無いよそんなの で 昼飯に戻ったらまだ居てさ 食器洗ってくれてて縁側で煙草吸ってて どうも なんて会釈するから可笑しくて」
「可笑しいだけで済むかねえ」
「さあ」
「名前は?」
「聞いた 何処から来たのかも でも理由はあんまり分かんない 犯罪者とかじゃないよ」
「この寒いのにそこに来たってのも頑丈な話だねえ」
「脆さの限界に挑戦してんのかもよ」
「まあ・・・あまり引き込まれない様にね」
「うん」
「停留所かあ」
「?」
「いや バス もう随分乗ってないからね」
「ああ」
「停留所でバスが見えると嬉しくならない?」
「ん なるよ」
「席に座れたらホッとするよね」
「うん」
「動き出したら景色より先に運転手さん見たりしない?」
「anitya」
「うん」
「何かあったの」
「うん」
「何?」
「うん 喋るとちょっとアレになっちゃいそうだからもう今は止しとく」
「困ったな」
「知らない人には困ってないのに妙なこと言うね」
「んー・・・」
「もうちょいしたら言う 仕方の無い事だから日にち薬でいいのよ これは」
「ホント?」
「多分そういうふうにできてるんじゃないかなあ」
「こっちに遊びに来たら?」
「ヤダ」
「何で」
「まだヤダだからヤダ」
「あったかくなったら来れば?」
「わからんなあ」
「わからんかあ」
「なんか おなか痛いからもう電話きるよ」
「甘くないお萩作ってあげるから 来た時は ね」
「小豆いっぱいのがいい」
「うん」
「胡麻のも」
「うん」
「あと バスに乗る」
「え?」
「やっぱり一人じゃ ちょっとまだダメだから一緒に乗ってもらえんかな」
「どしたのよ」
「仕方ない バスに乗りたいもん」
「分かった」
「その知らない人さあ いつまで居るのかな」
「どうだろねえ」
「もし居ても乗る?私がそっちに行った時」
「乗るよ」
「それって三人で?」
「まだその人が居てもanityaが嫌なら断るよ」
「じゃあヤダ」
「うん」



友人がちょっと黙って ごめん と 言って来た
実を言うとね 今 ちょっと此処を離れられないみたいなんだ と 言って来た
そして

「バスに乗りたいなんて言われるの考えてなかったよ」

と 溜め息をついていた

「必ず一緒に乗るからおいでよね」

と 『ら』の 部分を強調した声音でまた黙り込んでいた










声を出さずに頷いて『可笑しな奴』が なんだかとても羨ましく思えた
# by anitya_ocean | 2010-03-11 22:56